どうも〜(^O^)/ ごきげんよう♩
中島聖奈です!
初めましての方も、いつもレッスンを受けて下さってる方も
ぜひ私の人生【聖奈物語】を、最後まで読んで頂けると嬉しいです!
聖奈物語とは、
私のこれまでの人生を書き記した長~~い自己紹介です。笑
ただの自分語りではなく、皆さんの役に立つ情報として書きますし
私が何を思い、どんな経験をしてきたのか、包み隠すことなく赤裸々に書いています。
仕事への想いや考え方も、同時に知ってもらえたらと考えています。

まず私は
1991年10月29日 生まれの34歳で
熊本県の中央町という、山間にある兼業農家の第1子として生まれ育ちました。
父母・祖父母は会社勤めをしながら、野菜や米も作っていました。
裕福ではないものの、生きていくお金には困らず、ほのぼのと家族で幸せに暮らす田舎の普通な家庭です。
畑や田んぼや茶畑に囲まれ、家には牛も飼っていました。
(トトロのサツキとメイが住んでいる田舎を思い浮かべて貰えるとほぼ一緒ですw)
生まれてから、同居していた父・母・祖父・祖母・曾祖母、親戚やご近所の人達にたっぷりの愛情を貰いながら育っていきました。
そんな平穏な生活が激変したのは2歳の時。
はい。
弟が生まれたんです。
田舎で長男というのは、お寺のご本尊のように立派な存在として扱われるのが常ですが、我が家も例外ではなく
跡取りが生まれた!!!
と周りの大人たちが弟に期待と愛情を持って接し、依枯贔屓(えこひいき)しているのを幼いながらに私は感じていました。
『私なんかより弟が大切なんだ』
と劣等感を持ったのは、想像以上に早かったと思います。
今なら当然
両親や親戚はエコ贔屓などしておらず、単に私だけに注がれていた愛情が弟にも注がれ始めただけで、
みんな今までと変わらない愛情を私にも与えて続けてくれていたと分かりますが、
2歳の私にはとても衝撃的な出来事でした。
そんな劣等感を持ったまま過ごしていたある日、母が保育園の先生に
「せなはしっかり者なので家でも助かってます」と嬉しそうに話してたのを見たんです。
その時
『しっかり者だと喜んでくれるんだ!』
『私の事見てくれるんだ!』
と思ったのをハッキリ覚えています。
(固定観念が確立された瞬間でした)
そこからはしっかり者と思われたいが、私の価値観の優先順位第一に君臨し
【弱音は言わない・甘えない・我慢する】を標準装備で過ごすことにしました。
例えば
小学4年生から始めたバレーボールでも
弱音を言わずただ上手くなること
しっかりしなきゃの固定観念でチームをまとめる事をしていきました。
しかもそれは、心からやりたい訳じゃなく、しっかり者だと思われたいが原動力の歪な生き方です。
そしてそんな状態のまま、小学校高学年になった頃、また大きな出来事が起きます。
それが
父方の祖母、母方の祖父・祖母が立て続けに倒れたんです。
脳梗塞や脳出血が原因でしたが、なんの前触れもなく突然倒れたんですよね。
学校の授業中に先生から『おばあちゃんが倒れたって電話あったから帰る準備して急いで帰って!』と言われ、
朝までばあちゃん元気だったのに…死ぬの?と生きた心地がしなかったし、
また別の日の朝7時に、珍しく電話が鳴ったと思ったら、祖父が倒れたという急報でした。
電話に出た母は、震える手で受話器を置き、父の胸でわんわん泣きじゃくる姿も見ました。
父方の祖母は、半身不随の障害が残り、活動的だった性格は出不精になり、ベッド中心の生活に。
母方の祖父は、喋ることも、歩くことも、自分で食べることも出来なくなり、車椅子生活に。
母方の祖母は、植物状態になり、人工呼吸器を付け延命措置。意識は戻らないまま、足が壊死してきて両足を切断する姿も見ました。
そんな一連の出来事から
・60歳になると病気になって倒れるんだ。
・倒れると家族は悲しむんだ。
・そして、家族は介護し続けるんだ。
こんな固定観念も追加され
さらに、一番強く覚えている感情は、
【家族みんな、誰も楽しそうじゃない】
ということものでした。
祖父母は人生を最後まで楽しめず、
介護している親族・家族の人生も一変し、
辛い現実に愚痴や不平不満だらけになっていく。
みんなが不自由そうで、それでも生きていかねばならずに苦しんでいるように見えたんです。
なんで病気になるんだろう
病気にならないといいのに
そんな事を考え始めた小学校生時代でもありました。
何やら暗い話なってしまいましたが、これらの体験が私の原点になっているので書きました!!
ここからどんな展開になっていくのか、ぜひお楽しみに!!

